メールマガジン台湾の声より転載させていただきました。
李登輝先生の外国特派員協会講演全文です。
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台湾の主体性を確立する道
日本外国特派員協会のピーター・ランガン副会長をはじめ、会場にお集まりの特派員の皆様、こんにちは!台湾から参りました李登輝です。
今回、国会における講演のご招待をいただき、昨日は多くの国会議員の先生方を前にお話しすることが出来ました。
そして本日、二〇〇七年六月以来、八年ぶりにこちらに伺い、再び講演する機会を得られましたこと、大変光栄に感じております。
八年前は、念願だった奥の細道を訪ねる旅の最終日に、こちらの協会で講演したと記憶しております。その時、私の隣に座っていた中嶋嶺雄先生も今では故人となられ、年月の流れを感じずにはいられません。
その一方、この八年間で、中国は経済的にも発展を遂げ、国際社会における発言力を増してきたと同時に、ますます領土拡張の野望をむき出しにしてきています。これは、それまで世界の政治の方向性を主導する立場にあった米国の発言力が落ちて来ていることと無関係ではありません。
かつてはアメリカを先頭に、日本など先進五カ国、いわゆるG5が世界の経済や政治の進むべき方向性を決めていましたが、先進国の力量が軒並み落ち込み、新興国の発言力が強くなってきたことで、
国際秩序が多様化し、その結果、アメリカのようにグローバルなリーダーシップを引き受ける能力と経済力を持つ国、もしくは組織がなくなりました。
言い換えれば、グローバルなリーダーの不在、つまり国際秩序が崩壊したとも言えるでしょう。アメリカの政治学者イアン・ブレマーは、こうした状況を「Gゼロ」の世界と呼んでいますが、私としては国際社会に「戦国時代」が到来した、と呼びたいところです。
こうした混沌とする時代に直面し、常に私の頭を離れることがないのは、我が台湾の行く末についてです。そこで本日は、「台湾の主体性を確立する道」と題して、皆様にお話ししたいと思います。
台湾は移民で構成された社会です。有史以前から台湾の平地や山地に暮らしていた原住民、対岸の福建などから海を渡って台湾にやってきた漢人、客家と呼ばれる人々、そして戦後になって中国大陸から渡ってきた外省人たちを主として構成されています。ただ、その一方で四百年に六つの外来政権によって統治され、清朝時代には「化外の地」として版図にさえ組み込まれない時代さえありました。
一九八五年、下関で日清戦争の講和会議が開かれ、台湾の割譲について話し合われましたが、日本側の代表である伊藤博文に対し、清朝側の李鴻章はこう言ったといいます。
「台湾は非常に治めにくいところです。三年に一回、小さな乱が、五年に一度は大きな乱が起きる。清朝の管理の行き届かない『化外の地』です。」
それに対し、伊藤博文は「台湾は日本が引き受ける」と割譲を受け、その言葉どおり、台湾はその後の日本統治五十年によって、前近代的な農業社会から、現代的な社会へと変貌を遂げることになります。
ただ、現代においても台湾が移民社会であることは変わっていません。とはいえ、総統時代の私は、このような移民社会を率いるうえで、エスニック・グループの対立は、なんとしても解消しなければならない問題でした。
それまでのように、本省人や外省人、または原住民などと、台湾の人々自らが区別していては、台湾人としてのアイデンティティの確立など不可能です。当時の私は、これからの台湾は、こうした祖先の生まれた場所が異なる人々の枠を取り去り、新しい国を作り上げていくよう導いていかなければならないのだ、と背筋の伸びる思いがしたものです。
一九九四年の春、私がまだ現役の総統だった頃ですから、もう二十年以上、昔のことです。作家の司馬遼太郎先生が『台湾紀行』の執筆に一段落がついたということで、台湾を再び訪問されたことがありました。その前の年にお会いした時、「来年の四月にまた来ますから」という約束どおり、私を訪ねてくれたのです。
その際に対談をしましょう、ということになり、私は「どんなテーマで司馬先生とお話ししたらいいだろう」と家内に相談したところ、「『台湾人に生まれた悲哀』というテーマはどうだろうか」となりました。四百年以上の歴史を持つ台湾の人々は、台湾人として生まれながら、台湾のために何も出来ない悲哀がかつてあったのです。
私は台湾に生まれ、台湾で育ち、台湾のために尽くしてきました。そんな私にとって、故郷台湾への想いは尽きることはありません。
同時に、台湾の人々がこれまで長期に亘り外来政権によって抑圧されてきた悲哀を思うと憤慨せずにはいられないのです。私はこれまで、台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んできました。
後に、私は政治の世界へ入り、最終的には総統を十二年務めるという偶然のチャンスを得ることになりましたが、そこで私は台湾のために全力で働こうと決心したのです。そして、台湾を外来政権の統治から解き放って自由な国へ、そして台湾人として生まれた悲哀を、台湾人として生まれた幸福へ、これこそ私が人生をかけて力を注いできた目標なのです。
一九四五年、台湾を統治していた外来政権たる日本は大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄しました。台湾は勝者である米英などによって中国国民党による占領下に置かれることとなり、「中華民国」という別の外来政権による統治が始まったのです。
ただ、五十年に及ぶ日本の統治によって著しく近代化されていた台湾にとって、文明水準の低い新政権による統治は台湾人には当然のごとく政治や社会における大きな負の影響を及ぼしました。二二八事件の原因は、台湾と中華民国という二つの異なる「文明の衝突」だったといえるでしょう。
台湾は数百年来、ずっと外来政権の統治下にありました。一九九六年に台湾で初めて、国民が選挙で総統を直接選んだことによって、やっと外来政権の呪縛から逃れることが出来たのです。
日本時代、学生が教室で台湾語を話すと運動場に正座させられる罰を受けました。しかし、日本の統治が終わり、国民党の時代になっても何ら変わることはありませんでした。
こうした状況下で、台湾人の間には「新しい時代の台湾人とは何か」という問題が沸き起こって来ました。
それまでの外来政権、例えば日本時代には、台湾人は日本人と比べて差別待遇を受けていました。しかし、中華民国は台湾が「祖国に復帰した」と称(たた)え、台湾人を「同胞」と呼びつつも、やはり二等国民として扱っていたのです。
その後、二二八事件の発生を受け、台湾人自身が「台湾人とは何か」という反問を徹底的に繰り返すようになると同時に、外来政権ではなく自分たちの政権による主体性を確立しなければならないと悟ります。そうでなければ、尊厳ある台湾人としての独立した存在になることは出来ないからです。こうして「新しい時代の台湾人」としての自覚が覚醒していったのです。
そうした意味では、「台湾人」による強固な「アイデンティティ」の確立は外来政権による統治下の産物といえるかもしれません。まさに、台湾人が自身を「独立した〈台湾人〉」とする絶対意識を確立する契機となったのが外来政権による統治なのです。
当時、台湾人は二つの外来政権の間の境界線上に立っていたとも言えます。そうした状況は、私の自我意識の形成にも非常に大きな影響を与えました。自分が、最初は日本人、その後は中国人という二種類の生、二つの世界、二つの時代という境界に生きる人間なのだと意識せざるを得なかったからです。
数年前、台湾で出版した『新しい時代の台湾人』という本のなかで私は次のように述べました。
「すでに民主改革を成し遂げ、民主国家となった台湾は再び民族国家に立ち戻るべきではない。大中華思想という、まやかしから脱出しなければならない。
台湾の国民による共同体意識は民主的であるべきで、決して民族的であってはならない。そうしたことから、私が提唱する『新しい時代の台湾人』というのは、民主社会において公民意識を持った国民の総称なのだ。」
新しい時代の台湾人とは、決して総人口に占める割合が多い民族グループが主体となって台湾民族を構成するのではありません。一視同仁の観点に基づき、すべての人々が平等な公民であると見なされるべきです。
この新しい時代に、台湾で生活する二千三百万の人々は、精神改革に取り組み、新たな意識を持たなければならないことを自覚しなければなりません。そして、主体的な思想変革を実現しなければならないのです。
「新しい時代の台湾人」という自覚を持つことによって、ここに初めて「自分は何者か、台湾人とは何か」というアイデンティティを確立することが可能となります。自分自身を「一人の、独立した、台湾人だ」と絶対的に認識することによって、過去の自我が救われます。
新たな思考を持つことで過去を否定し、新しい未来を建設するのです。その結果、台湾の民主化はよりいっそう深まり、さらに新しい民主的かつ自由な台湾が作り上げられることになるでしょう。
続いて、「中国の託古改制」についてお話ししたいと思います。
「託古改制」とは「古(いにしえ)に照らして制度を改革する」という旧態依然とした制度を重んずる考えです。
中国の歴史を紐解けば、五千年の歴史上、脈々と帝国体制が受け継がれてきました。こうした体系こそが「中国式の法統」です。この「法統」という体系から外れたものが化外(けがい)の民であり、夷狄の国々なのです。それゆえ、中国人の特色とは「ひとつの中国」の概念であって、中国五千年の歴史すなわち「ひとつの中国」の歴史でした。
現在の中華民国も、中華人民共和国も、ともに中国五千年の歴史の延長にすぎず、ここから見てとれるのは、中国はいまだに進歩と退歩を絶え間なく繰り返している政権にすぎないということです。
となると、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが、中国をして「アジア式の発展停滞」と論じていますが、これは決して誤りではありません。
孫文が建国した「中華民国」は理想を宿した新しい政体ではありましたが、残念ながら政局の混乱により、その理想は夢と終わり、基本的には中国式の「法統」の延長線上にある政体に成り果ててしまいました。
中華人民共和国は、その源をソビエト共産党に発するものの、「中国」という土地に建国された以上、中国文化の影響から逃れられずにはいられません。
毛沢東にはじまり、以後のトウ小平、江沢民に続くまで、表面上は「共産党」ではあるものの、その統治政策を見ても、共産党は早々(はやばや)と中国化していたのです。「一国二制度」による中国の香港回収もまた中国固有の産物であり、決して 誤りではありません。
ここで指摘しておかなければならないのは、共産革命が中国にもたらしたのは、中国をアジア式の発展停滞から脱出させることでもなく、中国から抜け出させることでもありませんでした。それは、まさに中国伝統の覇権主義の復活であり、誇大妄想を有する皇帝制度の再来だったのです。
中国五千年の歴史は、一定の空間と時間のなかで、一つの王朝から次の王朝へと連結する歴史であり、新しい王朝といえども前の王朝の延長にすぎません。歴代の皇帝は権力の座の維持、国土の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革への努力を払うことは稀でありました。これこそがいわゆるアジア的価値といえるものです。
今年の三月、「シンガポール建国の父」と呼ばれたリー・クアンユー氏が亡くなりました。私と同い年ということもあり、何かと比較の対象として引き合いに出されましたが、はっきり申し上げたいのは、リー・クアンユー氏と私の思想は全く異なるということです。
『文明の衝突』を著したハーバード大学のハンチントン教授は「李登輝が死んでも台湾の民主主義は残るが、リー・クアンユーが死ねばその制度は失われる」と評しました。
まさにリー・クアンユー氏が採ったのはアジア的価値である同族支配体制であり、私が推し進めたのは自由と民主を尊重する「世界的価値」だったからです。
中国の歴史上、政治改革といえるものが何度か起こりましたが、惜しむらくはどれも成功しなかったことです。歴代皇帝の統治を見てみると、どの王朝も疑いなく「託古改制」のゲームに終始していると言わざるをえません。「託古改制」とは言うものの実際は「託古『不』改制」と言うほうがより事実に即しているでしょう。
五千年の閉鎖された皇帝制度に対し、魯迅は次のような見方をしています。
「これは、閉ざされた空間で亡霊が入れ替わり演じる劇であり、この国がよたよたと歩みを進める、つまらぬ輪廻の芝居である」。
魯迅の表現は中国人の民族性を的確に表しています。
「中国人とは『騒ぎは率先して起こさず』、『禍の元凶にならず』のみならず、『率先して幸福にならず』の民族である。これではあらゆる物事の改革を進めることが出来ず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない」。
私は、この魯迅の観察はかなり正鵠(せいこく)を得ていると感じます。
ここで私は、新しい改革の方向性として「脱古改新」という新しい思想を提唱したいと思います。「脱古改新」とは古(いにしえ)を脱し、新しく改める、つまりはアジア的価値からの離脱ということです。
中国の「法統」による「託古改制」は、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかです。
「脱古改新」の目的は、「託古改制」の害毒であるアジア的価値を捨て去り、「ひとつの中国」、「中国式法統」による呪縛から逃れ、台湾を主体性ある民主国家にすることにあるのです。
台湾にとって「脱古改新」が必要なのは、とりもなおさず台湾自身の問題であり、中華人民共和国から派生する問題にあります。
一九八八年、私が総統の任に就いたときに描いた、台湾という国家の戦略を描いた背景は次のようなものでした。
この当時の台湾における、国民党政権による独裁統治は、まさにアジア的価値観の見本とも言えるような状況でありました。
政権内部には、保守と革新の対立、閉鎖と開放の対立、国家的には民主改革と独裁体制の衝突、台湾と中華人民共和国の間における政治実体の矛盾など、深刻な問題が山積していました。
特に、民主化を求める国民の声は日増しに大きくなっていたのです。
全体的に見ると、これらの問題が抱える範囲は非常に大きく、その根本的な問題は、台湾の現状に即していない「中華民国憲法」にあったと言えます。そのため、私はこれらの問題解決のためには憲法改正から始めるしかないと考えたのでした。
当時、私は国民党主席を兼務しており、国民大会では国民党が絶対多数の議席を有していました。言い換えれば、当時の国民党は絶対的に優勢な政治改革マシンでありました。
ただ、問題は党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、その地位を放棄することにも大反対でした。民主改革を求める民衆の声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。
さらに、国民党を牛耳る有力者たちは「反攻大陸」、つまり、いつの日か中国大陸を取り返すという、時代遅れの野望を捨てきれずにはいられませんでした。
そこで私は一計を案じ、「国家統一綱領」を制定して「中国の自由化・民主化・所得配分の公平化が実現された際には、統一の話し合いを始める」という厳格な規定を設けました。
私は、中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的に来ないと思っていましたし、仮にそうなった場合には、その時にお互い再び話し合えば良いと考えたのでした。ただ、この国家統一綱領を作ったおかげで、それまで私に猜疑心を抱いていた国民党の有力者たちは安心して総統の私を支持してくれるようになったのです。
こうした一連の民主化の過程において、私は幾多の困難にぶつかったとはいえ、終始国民からの支持を受けながら、経済成長の維持、社会の安定を背景に、ついに一滴も血を流すことなく、六度にわたる憲法改正によって「静かなる革命」を成就させました。
憲法改正の主な目標には、「動員戡亂時期」を終わらせ、「動員戡亂時期臨時條款」を廃止すること、中央民意代表のすべてを台湾の有権者による選挙で選出すること、有権者の直接投票による総統選挙などが含まれ、これらを相前後して実現させていきました。
そして、「民主主義」という大きなドアを開けたのみならず、「中華民国」を「中華民国は台湾にあり」という新しいステージへと押し上げたのです。長らく追い求めてきた台湾の主体性を有した政権はこの頃に完成されたと言ってよいでしょう。
言い換えれば、台湾はもはや「ひとつの中国」の呪縛を脱したと同時に、「中国式法統」の道を突き進むことをやめて「アジア的価値」の神話を打ち破ったのです。
私は一九九一年、歴史問題を解決し、対立の火種を取り除き、平和で安定的な両岸関係を築くべく、国共内戦が続いている根拠となっていた「動員戡亂時期」の終結を宣言し、国共内戦を終わらせました。中国と台湾が相互に相手の政治実体だと認め、さらに台湾が有効的に台湾を統治し、同様に中国もまた中国大陸を統治していることを承認するようにしたのです。
一九九九年、ドイツの放送局によるインタビューを受けた際、私はより明確に「台湾と中国は『特殊な国と国との関係』」と言い切りました。台湾と中国の境界をより鮮明にしたのです。半世紀以上もの間、台湾問題とはすべからく中国との関係においてでした。中国との関係をきちんと整理することで台湾に長期の安定がもたらされるようにしたのです。
さらに、台湾が主体性を有する国家となるためには、文化建設もまた重要でした。そのため、私は政治改革を進める一方で、教育改革、司法改革そして精神改革を唱えることも忘れませんでした。
中国的な文化の色彩を弱め、様々な分野で主体性を有した台湾の文化を確立させたのです。台湾の国家的基礎を固めるためのこの改革を、私は当時「新中原文化」の確立と呼んだのです。
台湾の民主改革の成功、新しい文化の確立、対中関係の整理は「託古改制」から「脱古改新」への転換のプロセスによって実現されました。そして、アジア的価値を否定するという目標を達成し、「新しい時代の台湾人」という新概念を確立させたことは、あらゆる価値観における価値の転換の実現だったのです。
本日は、「台湾の主体性を確立する道」と題して、皆さんにお話ししました。ご清聴いただき、ありがとうございました。